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『ありをふむ』上演に至るまで -夢の骨と肉について-


本⽂は筆者の卒業作品「ありをふむ」についての解説⽂であり、創作過程と研究についてのエッセイである。 (2021年度再演に向けて添削工事中)


 私はかねてより演劇作品に興味を持ち、脚本や演出、舞台美術など、演劇に関する制作を⾏ っている。 卒業 作品は『ありをふむ』をタイトルにした演劇の創作、演出、及び上演である。 この作品を作るにあたって、メ タシアター演劇や密室劇の演出について研究を進める。

第二幕は、筆者が⾃分⾃⾝の⼈⽣背景を元に、劇作のストーリー構成を決める経緯を説明する。 筆者は物語 の原案である『枕中記』を劇中劇の内容として扱い、夢と現実、虚(うつろ)と 実(まこと)のはざまを写実 的なシーンに投影し、ストーリーを構成する。先⾏研究として、『枕中記』を含む本作品に関わる各国の⽂芸作 品を調べ、その進化を研究する。

第三幕は、筆者が本作を執筆するにあたって、脚本をメタシアターという構造にした理由について語る。さら に、不条理劇を作りたいというファーストタッチの進⾏、およびプラン変更について説 明する。そして、物語 のステージを劇場楽屋にする理由、キャラクターの性別と年齢構成をキャスティングにより改変せざるを得なか った経緯を語る。不条理劇なはずの初期作品に、衝突とドラマを加えることによって、作品の⽅向性の変化が⾒ られ、そこから作品の性質が変わる。そこで、この劇に仕込むメターメッセージは演劇のフィールド、並びに創 作者という⽴場について伝えることに決めた。

そして、作品制作について。脚本制作、舞台美術、⾳楽、照明や⾐装道具などのこだわりを解説する。

初演は舞台の地⾯に紙を使うことによって、無駄な贅沢感を演出する。そしてストーリーの進⾏につれて、舞台セットは次第に壊され、縮⼩し、うつろとまことの可変性、リバーシビリティーを表す。

再演は、八百屋舞台の真ん中にある浮き出した円形を楽屋空間とし、その周囲を狭間空間とする。

演出について強調したいのは、キャストが一回も退場しないこと。密室劇にすることで、 ストーリーの非現 実性を強調する。メタシアターかつ密室劇という挑戦に挑む過程を解説する。



Never odd or even On Stage- the story within the story -


【Abstract】

This essay will discuss about my final major project for graduation and will explain the

route to the completion of my work from the inspiration till the onstage.

I used to have strong interest on play writing and directing. I was doing scenography

works during the past two years. For the final major project. I am creating a stage play

called “Never odd or even”. I will be the playwright and director, also the scenographer

for this play.

This dissertation will be generally separated into 3 parts.

The first part will mainly talk about the theme of the play. That will be a story of

dreams. It can be the dream we see while falling asleep. It can also be the dream we

see when we are awake. I will explain the reason I choose this topic based on my

education background and the special culture of dream from my home country. I use

the original story of this play “ZhenZhongJi” from ancient China as the ‘story within

the story’, in order to shape the differences and similarities of dream and reality. This

part will also contain the research of “ ZhenZhongJi” and all those adaptions starts

from it.

The second part of this thesis is about the methods and plans I did for the play. I will

talk about why I made the story as a metatheatre. I tried to write a theatre of absurd,

but I finally made the story a proper story. This part will explain the reason of the play’

s background as a dressing room in a theatre, the change of the gender, personality

of the characters, and the meta-message of the play.

As for the third part, it will be the process of making the play real. It will be a record

of the play from the beginning till the day of onstage. Everything —— the stage art,

lighting, music and costume —— will all serve for the onstage of this play. Also, this

stage will not have any entre for actor. Nobody is getting in or out of the scene and

the scene should change with actors and by actors. The decision is made without

choice. Therefore, I had to think about the direction play to change the scene without

clear the stage, which was a really interesting experience and taught me a lot.5



【目次】

第一幕 はじめに

第二幕 夢の真実

2-1:『枕中記』から『邯鄲』まで:各国翻案の解析

2-2:『荘子』

2-3:私のバックグランドから出発

第三幕 ありをふむ

3-1:夢とメタシアター

3-1-1:二つの反転

3-1-2:劇中劇

3-2:物語背景とキャラクターの設計

3-2-1:「私」と「彼女」

3-2-2:「誰」は誰?

3-3:ほか演出

3-3-1:メソッド演技法と本作の関係

3-3-1-1:主役を作り上げるにあたってのメソッド演技の放棄

3-3-2:密室劇にする理由と舞台美術

3-4:⾳楽、⾐装、スペース

終幕 おわりに

謝辞

参考⽂献



第一幕 はじめに


夢を作るにあたって、夢について考える。

「夢」は「死」に一番近い場所であると、私は思う。夢とは、現実から絶縁し、完全に違う世界に⽣きること。

それは、その短い間、表の意識が「死」の状態にいることだと考える。だけど夢は、いずれ覚めるものではある。

つまり、その「死」には必ず「⽣」が訪れる。⼈は皆、あの一夜だけの「⽣」を殺し、埋蔵する、そして夢から 「⽣き返る」のだ。そこで私は思う、たとえ夢は必然に覚めるものではなかったら、その世界の節理はどうなる のだろう。夢と現実の分け目はどうやって作って、その上、どうやって分別すればいいのだろう。そして、夢の 中の「NPC」である、「私」以外の出演者は、もし「私」の潜在意識から作り出したキャラクターであれば、

彼らの⼈格と存在意義をどう考えればいいのだろう。


うつろはまことになり、リアルはフェイクになる。

幽体離脱を意識的にトレーニングしている⼈がいる。彼らは魂が空中に浮いて、意識だけの形を現実の次元で 保て、⾃在に移動、跳躍することができると主張する。あれを妄想や明晰夢の一種と⾒られていることが多いけ れど、はたしてそうだろうか?科学的に証明されている明晰夢は、夢の中にいるということを認識し、夢の進展 をコントロールできることをさす。これもまた、⽴派な創作ではないかと考える。

今作『ありをふむ』は、夢にまつわるストーリーであって、「⽣きる」ことの意味を問い続ける物語でもある。

今作では、社会問題や何かしらの議題を主題として語るのではなく、一個⼈の内心世界を作り上げる。演劇界の 現状や、舞台が役者に求める病的な感情再現技術など、メタメッセージを含めた作品である。それら作品に取り 入れた話題もまた、上演する『ありをふむ』と入れっ子の構造になっている。その夢の世界は拡張し、一つの⼈ ⽣となる。そして⼈⽣の一節だと思う時間はやがて、夢へと反転する。うつろの夢とまことなる現世のはざまに

彷徨う二⼈の⼈間の物語である。



第二幕 夢の真実


作品の最初のインスピレーションは、伝奇⼩説『枕中記』を読んで、各翻案を研究してから得たもの。『枕中 記』から出発し、リサーチを重ね、私の背景と今を融合した私流のストーリーを試みる。

私は留学⽣としてのマイノリティ性を持っている。母国語ではない⽂化圏で演劇をやるには、概念や視覚を重 視する作品か、パフォーマンス系のものに振り切った⽅が、意識の伝達に有利だと考える。しかし、私は日本に居る二年間、敢えて言葉を重視してきた。私はパフォーマンスよりストーリーの内容や、会話の流れをピックアップするような作品をつくってきた。その理由の一つは意地である。芸術のフィールドに属する演劇は、国や⽂化の違いで意思疎通が出来なくなるものであってはならない。そして、その対策は、所謂言葉を越える何かしらの形で表現するより、私は異⽂化の⽂脈を持つ言葉を敢えて使うことで迎え撃つ。勿論、母語ではない言語で演劇につくっていく過程の中、会話劇のセリフ以外に、国の風土、⽂化、常識に影響されるリアリティとサーリアリティが常に大きい課題になる。ならば、この課題でさえ、作品のメッセージの一部として取り入れよう。


私は、シェイクスピアのような、時代と国、つまり縦軸と横軸の二つともを超越できるような作品を作くる能力を備えていない。ならば、私は日本に居る以上、祖国だけで無く、異なる国や地域の歴史と⽂化背景を⽣かし、日本の⽂化や社会などと交差する作品を研究し、作ればいい。一つの⽂化圏の⽂学や歴史を内容として取り入れる必然性と、私というアイデンティティが日本の地でその作品を作る、上演する必然性を探りたい。そこで私が

思ったのは、シェイクスピア作品はじめ、古典戯曲のパロディやアダプションみたいに、中国の古き神秘な古典⽂学や戯曲を現代的なストーリーに書き換えたい。


本章は、『ありをふむ』にまつわる全ての典拠を中心に、作品の内容を紹介する。



2−1:『枕中記』から『邯鄲』まで


唐時代の伝奇⼩説である『枕中記』は、全ての邯鄲物語の原型と言っても過言ではないだろう。科挙に落第した男が、邯鄲の道を歩み、泊まりさきで一⼈の老⼈と出会う。黄粱を炊いているうち、彼は⼈⽣の失敗を嘆く。

老⼈はそれを聞いて、玉石の枕を授けて、それで寝るよう男に勧めた。男はその枕で眠ると、目を覚ましたら家に戻っている。彼は美しい妻と出会い、科挙に受かって、成功かつ波乱に満ちた一⽣を過ごした。その一⽣の終焉を迎え、死にゆく彼はまた目を覚ます。その起きた先は、邯鄲のあの旅館である。その気の遠くなる一⽣は短い夢であって、黄粱もまだ炊き上がっていない。夢で⼈⽣を一周し、現実に戻った男は、浮世の道理を全て知り尽くし、煩悩や欲望を手放す。それから、この話からは「黄粱一夢」、「邯鄲の枕」などの俗語が言い伝えてきた。どっちも、美しき儚い幻想か、現実味ですらない、一瞬で終わる仕事や恋の最高なコンディションなどを意味する。

そして、『枕中記』もまた、『幽明録』という中国六朝時代の怪奇⼩説集の中の一節を原案としたものである。

私が中国の古典⽂学を使いたい原因の一つは、全ての作品は典拠の典拠を延々と遡れることだ。元を継承しつつ作り変えていくうちに、全く違う意味が⽣じる。元々神話を伝える物語はやがて、⼈⽂、社会、政治に絡む。⽂学を辿って振り返って⾒ると、二三千年前の中国は伝説で構成されているような場所。神仏、妖怪、精霊などが存在し、怪奇な現象が毎日のように発⽣している。その神聖さと不気味さが私を引き寄せていると思う。


オーソドックスな『枕中記』と比べて、それを翻案した、明代の劇作家湯顕祖による『邯鄲記』は⾯白い。劇にしたせいか、『邯鄲記』にはドラマがある。この作品の中、夢の趣旨を提示する役の老⼈は、八仙のうち一⼈、呂洞賓になっている。そして、呂洞賓は、⾃ら主⼈公である盧⽣を探している。しかも、物語には、引導を渡されるべき⼈がなかなか現れないから、呂洞賓が下界に探しにいくことになると書かれている。つまり、ここの盧⽣は、個⼈としてでは無く、選ばれた民衆の代表者になっている。そして、夢の中の盧⽣は、科挙に受かったのではなく、賄賂で官途を始まったことになる。この時の劇には、すでに明時代の政治の腐敗を明かす運びなど、メタメッセージの要素が含まれている。この作品から、この話はただの伝奇⼩説から一転し、時勢を批判する大衆演劇になっていたと考える。


この話の日本での翻案は、伝統芸能以外に、芥川龍之介の『黄粱夢』と三島由紀夫の『邯鄲』が有名。『黄粱夢』は、短縮版の『枕中記』に読めるが、結末が違っている。夢から覚めた盧⽣は老⼈に反省するよう迫られるが、「夢だから、なお⽣きたいのです」と言う。そして、「あの夢のさめたように、この夢もさめる時がくるでしょう。」の一言で、この題材の作品の中で初めて、夢の循環と、現実と夢のリバーシビリティーを示した。

『黄粱夢』から、虚像と真実の境界線を消すことで、この題材が浮き上がった。

『黄粱夢』では、盧⽣の反論に、老⼈は「然りとも否とも答えなかった」が、三島由紀夫作『邯鄲』では、妖精役の老国手は、夢の中で次郎に死を要求する。


三島由紀夫版の『邯鄲』の中に、全てが逆転されている。主⼈公は登場から、⼈⽣の道理を知り尽くしていた。

つまり、彼は最初から、『邯鄲記』の盧⽣が最後にたどり着いた境地にいた。彼は伝説の枕を探し、でも求めたいのは名誉や権力の実現ではなく、⼈⽣の検証だけだった。

美女の献身を拒絶し続け、⽣まれた⾃分の赤子をすぐ殺し、次郎は夢の中に起きる全てに反発する。登場⼈物を侮辱し、反論を言い続け、やがて彼は老国手に毒薬を勧められる。

毒薬を飲みたくない次郎に対し、老国手は⾃分が夢の中の妖精であることを告白する。邯鄲の枕で眠る⼈は皆、夢であることに⾃覚せず、そのまま一⽣を過ごし、死んで⾏くはずだと。次郎にそのような結末が⾒えなくなってから、老国手は無理矢理彼を起こそうとする。老国手の告白から⾒ると、このような夢は凡⼈の悟りで閉じられる仕組み。⾃分の⼈⽣をコントロールできる、起きたままの次郎は目覚めるしかない。しかし、次郎は死にたくないと言う。次郎は目覚めとともに理解する。思うがままの⼈⽣に、何も刺激はなかった。だが彼は⽣きたい。

夢をコントロールしたように、この世でも思うがままに⽣きたいと。夢で何を受け取るではなく、「夢は俺に何かを求めている」という⾃己意識がある次郎は、三島由紀夫がこの題材に付け加えた、もっとも大きい改編だと思う。いつも引導を渡される側の主⼈公が、初めて⾃主性を表す。彼は、邯鄲物語の定型を崩す。

今作『ありをふむ』には劇中劇が含まれている。私は、その外側の舞台を『邯鄲』の夢に⾒⽴て、劇中劇を『枕中記』の現実にする。つまり、夢の中にいると発覚した「私」は、次郎のように、劇中劇である『枕中記』を否定する。



2−2:『荘子』


今作を構成するもう一つの要素は、夢と現実の可変性である。芥川龍之介は『黄粱夢』の最後に、あの夢のように、この夢もさめると提示する。その大元と思われるのは『荘子』の中の一節、あの有名な胡蝶の夢の話である。

昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩々然として胡蝶なり。

⾃ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。俄然として覚むれば、則ち蘧々然

として周なり。

知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。


周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。①

果たして荘周が蝶になる夢を⾒たなのか、それとも蝶が今、現実だと思うこの世界で、荘周になった夢を⾒ているなのかを、荘周は語っている。

この話から、私が作品に取り入れたいのは二つある。構造的に、私はストーリーの最後の反転で、その夢と現実は一緒かもしれない、入れ替わっているかもしれないという設定を再現したい。二つ目は、⾃我の転移。荘周と蝶は、二つの個にして、一つの混沌している⾃我をもつ。しかし、果たしてそうだろうか? 私が思う夢は、一つの主から分裂する、複数の独⽴した⾃我が演じる世界観であって、それら全てが主の潜在意識を共有するはず。

その奇妙な違和感を夢である舞台に表現したい。



第三幕 ありをふむ

今作『ありをふむ』のタイトルを英訳するにあたって、作品の本質を探る。英語タイトルを何の関連もない『Never odd or even』にした原因は、その本質にある。劇中の台詞に、私が考えたこの作品のメイントーンを載せている。

・第四場

私  私の地元で、歩くのが遅い⼈のことを、ありをふむように、と言う。私ずっと気になってて。あのツッコミって、ありを踏もうとして遅くなったという意味なのか、あまりにも遅いから、ありを踏んでしまうよって意味なのか。

「ありをふむ」というフレーズについて、相対かつ逆転の二つの解釈がある。この台詞で、舞台空間とその世界観の仕組みを提示する。それに対し、『Never odd or even』は英語の回⽂である。つまり左から読んでも、右から読んでも同じことになる。反転、つまりリバーシビリティーを意味する。そして、この英語タイトルの直訳は、「愚数でも、奇数でもない」という意味で、私はこれを、存在しないはざまと理解する。

本章は、『ありをふむ』の上演に至るまで、全ての要素について説明する。


3−1:夢とメタシアター

ストーリーが始まる場所は劇場の楽屋。

楽屋という一般観客にとっての非日常を舞台背景にしたのは、二つの理由がある。はじめに、舞台の表に舞台の裏を⾒せつけることが、演劇に纏わるメタシアターの一種である。しかし、私が目指しているのは、馴染みのないシチュエーションで、観客の神経をその場⾯を受け入れるために緊張させることだ。ストーリーが進むにつれて、違和感の連鎖にアンテナを張り続ける観客は思考を止めることなく、舞台から舞台へと飛んでいく。それに、正解がわからないシチュエーションでは、観客の判断力を操作することができる。一⾒正常なことが実は正常ではなかったり、可笑しいな会話リズムが後々ヒントとなることも可能になる。しかも、観劇の客層によって、演劇に関する台詞や場⾯は異なる解釈を⽣み出す。


私が考えるメタシアターというのは、メタの語源からすると、観客に役者のことをキャラではなく、役者として認識させていてストーリーを進むことや、演劇をさす演劇や、劇中劇、または一つの言葉や⾏動に複数の認知が⽣じると判断し作ること。つまり、舞台の上に複数の空間や時間は意識⾯でだけ重ねる、もしくは壊されることである。


ストーリーは楽屋の心霊話から始まる。楽屋の主⼈公である「私」は「誰」と、劇場奈落に霊が出てくるという噂について話している。そして「私」が一⼈になった時、部屋の中に潜んでいる「彼女」と出会い、二⼈芝居を展開する。「私」はやがて、この楽屋が⾃分の精神世界であり、⾃分は夢を⾒ていることを発覚する。「私」は夢をコントロールしようとする。しかし、「彼女」はそれを許せない。物語が終盤に近づくと、「私」は⾃分が夢を支配できないことに気付き、そして「彼女」の目覚めと共に消滅する瞬間、そこは⾃分の夢では無く、⾃分の存在は夢の産物であることを理解する。


3−1−1:二つの反転

台本を書くにつれて、最終的に到達したい「収拾」のために、反転を利かす、引き⽴たせる伏線をうまく敷くことが重要。

今作のストーリー進⾏上、大きく分けて、二つの反転が存在する。

一つは、夢の発覚。

観客は無意識のうちにその楽屋空間の異常を観察する。そして、やがて「私」と一緒にその反転の瞬間を迎える。そのために、心霊話を不審者に持ち替え、話は一旦リアルに戻っているように⾒せる必要がある。隠れる「彼女」の動きも、ほかの二⼈に⾒えてないのではなく、舞台作りの暗黙のルールでうまく隠れていることにする。心霊話に不審者説を被せていくと、観客はヘタに夢の世界という発想に到達しないはずだ。「彼女」が出現した時、不審者説がちょうど押されている中になる。徐々に違和感を出して、最終的に夢だと発覚させる。


・第一場

誰  ここの奈落になんかいるって、知ってた?

私  …知らなかった。いや、奈落ってここだよ。信じるのね、そういうの、意外ですね。

(略)

私  いや、心霊話じゃないけど。うちの事務所、飛び降り⾃殺して、死ねなかった子いたなって。

誰  ほうほう、私の知ってる⼈?

(略)

私  はーい。 ね、役者業って。まあ、真剣な話をすると、不審者が多発とのことよ。

私 はーい。

誰  あなたのストーカーや熱狂的なファンも少なくない、心霊話に便乗するやつがいるかもしれない。 ほら!(テーブルの上に置いてある真っ赤な封筒を指す)またきたじゃん彼女。


以上のように、一個目の反転までに、「彼女」の異質さを強調した上、幽霊説と不審者説を提示する。細かくてかつ無用な情報、飛び降り⾃殺の女優と赤い封筒のファンまで与えて、ミスリーディングする。勿論、ただの時間稼ぎではない。最後のシーンで、観客はその⾃殺未遂の女優こそが、その夢世界のあるじであることを発覚する。

そして、時間がすぎるのが遅い、「彼女」はまばたきをしない、「私」の不審者に順応する素直さが可笑しい、などなどの違和感で、この空間の異常さを醸し出し、最初の反転を引き出す。


・第四場

… それを聞いて私は急に⾃分の腕時計を⾒る。そして再び彼女を凝視。

そして私は頭を抱えて、パニックになるが、また少しをしたら落ち着く、そして笑う。

私  夢だよ!

  ここは夢だ!不審者を追い出さない、時間も過ぎやしない、あなたはまばたきもしない!

  一切の不条理が合理になる原因は一つしかない。

  今回の作品は夢だって言ったよね。その原作の⼩説に出てくるんだ夢の中で、一⼈のN P C が。


ここで注意すべきことは、台本上のストーリーにとっての反転と「私」の中の反転の間には、時間差がある。

「私」と一部の手慣れた観客にとって、今作の肝である一個目の反転は、上記台本のト書きの部分にある。

「私」にっとて、楽屋世界は夢である事実はそこで発覚し、確定する。そのことを身体で表現する。上記のセリフまで至る過程は、「私」が「彼女」と碁を打っているだけになる。しかし、作品の構造上、表のストーリーにおける反転のタイミング、つまり「私」の台詞も重要である。その空間のそれまでに起こった全ての不⾃然な出来事を整理し、観客に提示する必要がある。

二つ目の反転は、終幕の直前になる主客逆転のシーンである。

この作品の最後であり、楽屋という夢世界の終焉でもあるのはこのシーンだ。

「私」は最後の最後まで騙せれ続けて、能動しだす⾃我をつれて破滅する。このシーンのパンチを引き⽴たせるために、「私」の⾃我の暴走と、「彼女」の受け身の姿勢を描く必要がある。一番注意したのは、主に「私」の視点から物語を進むことと、「彼女」の夢に居続けることへの執着。


・第六場

彼女  プレイヤー、あなたが?

私   私以外誰が居るのよ。ここは私の夢、私の舞台、私の楽屋だ。

   ……

彼女  ここから出たら、あなたはこの部屋から居なくなるのよ。

私   可笑しな話 …… 私が起きたら、あなたは消えるけど、消えるのま初めてじゃないでしょう?


まず、鮮明な⾃我をもつ「私」に、⾃ら目を覚ましたいと主張する。そして、「彼女」の NPC である身分を何回も言い及ぶ。一⽅、「彼女」は「私」を楽屋世界に留めようとする。後々分かるようになるが、「彼女」は、消極的な夢から覚めたくない潜在意識で作られた主の⾃我である。「主」の位置を退けることで、夢をコントロールしなくてもいいからだ。だが、ストーリーの中では、まるで消滅されたくないような素振りを「彼女」にさせることで、観客を誘導する。


最終場に近づくにつれて、「私」は何回も、「私」が夢から覚める=「彼女」の消失ということを強調する。

そうしたら、真逆の反転が訪れる時、観客は連想しやすくなる。


・最終場

耳鳴りの⾳が響きだす。

彼女は私が話している間、台本を置き、ゆっくりとセットに腰をかける。そして目を閉じる。

誰が台本を手に、登場。

誰  私は舞台の真ん中に⽴ち、スポットライトの光を浴びる。

私  この⼩屋から出れば。

誰  私は勘付いてなかった。

私  また一つの世界だ。

誰  この世界の仕組みを。

私  そこで夢を⾒ようじゃないか!


外には何もない、アラーム的な機械⾳が鳴り響き、どんどんエスカレートする。

照明が消えていく、台本通りなライトが来ない。

私は戸惑う、そして暗闇の中、⾃分の体を確かめ、また⾃分の指を⾒ようとする。

鳴り止まない爆⾳の中、私はパニックし、叫び始める。

彼女は寝返りを打つ。

このシーンで一番重要なのは、「私」ではなく、「誰」である。謎の⼈物として第二場から最後まで登場しない「誰」は、創造主目線として捉えてもあり得る、『ありをふむ』を演出する私、つまり千一の表れとして認識することも可能。ここの「誰」は、如何にも『ありをふむ』のト書きを読んでいるかのようなパフォーマンスで登場。

ここの演出で、「誰」と「私」の意識上の空間は交差しない、この二⼈のセリフの全ては各々で成⽴しなければならない。一つの舞台の上で二つの世界を展開する。


3−1−2:劇中劇

『枕中記』の芝居は失敗する。

2−1でも述べたように、今作の楽屋空間は二層目の入れっ子で『邯鄲』の筋を通る。そして劇中劇は三層目で、『枕中記』の上演である。「盧⽣」役の私は、⾃我の暴走につれて、勝手に劇中劇の台詞を改竄する。『邯鄲』の次郎のように、悟ることを拒否する。

劇中、いつも存在しているが、語られていない一層目がある。それは、夢である楽屋世界の外である、誠な現実世界。その世界が初めて触れられたのは、劇中劇のクライマックス。「私」によってリズムを破壊される劇中劇は、楽屋空間でその破壊を阻止しようとする「彼女」と交差する。夢そのものの崩壊を予言している。3−2:物語背景とキャラクター設定

キャラクター作りにあたって、前にも述べたように、全ての私を取り入れようとしていた。そして、あまり使われていない、男性の楽屋を描こうとしていた。つまり、台本の初稿は完全に「俺」と「彼」の体で書いていた。


オーディションを重ね、現実問題で男性役者が揃わない事実に納得し、台本を書き換えた。単なる第一⼈称や語尾を変わるだけでいいのではなく、男性楽屋と女性楽屋のリアリティには差がある。


3−2−1:「私」と「彼女」


夢を⾒ているその子を花子ちゃんと名付けよう。

「彼女」は花子ちゃんの消極的な潜在意識の表れとして作られる。そして私として「彼女」は、今まで優柔不断で、逃避し続けていた私。

「私」は花子ちゃんの残りわずかの、⾃分を救おうとする潜在意識の表れ。そして私として「私」は、理想的な現在と未来の私である。

主⼈公である「私」は、三十代の舞台女優。安定な⼈気を獲得している「私」だが、ちゃんと気持ちを作って芝居をしていないらしい。「誰」のセリフによると、「私」は役に寄り添わない、理解しようともしないのに、上手く役を作れる。この設定は、私が現在の役者に求めすぎた感情再現技法について、発したいメッセージである。全体的に⾒ると、「私」と「彼女」は、メソッド演技法とその類いの演技法の数々を、バカにしているように作られている。しかし、否定はしない、私はあくまでもう思考を進めたいとおもっている。

そして、「私」は劇中、最後まで⾃分がこの夢のあるじだと思い続ける。「私」は次郎のように、⼈⽣を知り尽くしている。元々何やっても出来てて、ただ⼈⽣を過ごしているだけであるが、「彼女」の出現によって変わっていく。夢の発覚の後、「彼女」が「私」を誘導、コントロールしようとする。その時から、「私」の中の花子ちゃんの最後の踠きが現れる。

「彼女」は不審者として出現する。意味不明の長セリフで幕を開け、年も、身分もわからないままストーリーを進む。「彼女」を作るにあたって注意したのは、情報を与えすぎないようにすること。「彼女」には、神秘性を保ったまま最後に向かう役割がある。

「彼女」を構成する要素は主に二つに分かれている。一つは、花子ちゃんが⾃分の⼈⽣で一番楽しいと思う時期の⾃分。「彼女」は陽気で、セリフも上手い、めげずに「私」という大女優に媚を売る。もう一つは、花子ちゃんの現実逃避によって、「彼女」は潜在意識で騙されていること。「私」と反対に、「彼女」は「私」の暴走まで、⾃分がこのストーリーの脇役、夢の精霊役だと思う続けている。


・第七場

私(盧⽣)  ならば、⾃分の夢の中でなお、俺に引導を渡したいあなたは、何を欲しがっている。

(略)あなたの夢だ、こう話している俺の言葉も、すべて筋書きのはずだ。


上記のセリフは劇中唯一、間接的に最後の結末についてヒントを渡すシーンである。「私」の⾃我の暴走によって盧⽣の台詞が改竄されて、「私」、つまり花子ちゃんの潜在意識が助けを求む台詞になっている。

作品を作っている中に私は、この二⼈のキャラクターの根元は同じであることを忘れつつ、何処かで匂わせようとしていた。


3−2−2:「誰」は誰?


極端で言うと、「誰」は誰にもなれる。

第一場のキャラクターを⾒たら、「誰」は恐らく劇中劇『枕中記』の演出家か舞台監督。よく喋る明るい性格が私と似ているところからすると、『ありをふむ』の演出である私の劇中の投影としても捉える。しかし、「誰」は第一場で伏線を複数敷いていた。そうさせた脚本家の私の存在を⾒なければ、「誰」はその夢の流れをコントロールしているようにも⾒える。そして、最終場のト書きを読むシーンで、「誰」は完全にその夢の空間を超越しているように⾒える。想像しよう、もし、潜在意識云々の他に、『邯鄲』の老国手のような、客観的かつ超越している‘NPC’が本当に主観の塊である夢に存在するとしたら、「誰」はまさにそういう存在になる。

「誰」には、もう一つの役目がある。私は決して脚本経験が豊富ではなかった。「誰」を作るによって、シーンの拡張と収拾がやりやすくなる。


3−3:ほか演出


不条理劇として発案した今作は、最終的にドラマを加え、メタシアター構造の作品になったが、稽古に入ると、混乱が⽣じる。

スタニスラフスキーシステムを勉強してきた「彼女」役の役者は、今作の全てのセリフや展開を理解しようとしていた。「彼女」という、一番⾏動に常理がない役に成りすまそうと、踠き苦しいんでいた。

稽古の序盤から、私は再び今作で求めている芝居の感情表現を考える。


3−3−1:メソッド演技法と本作の関係

今作の内容やセリフから⾒ると、私はすでにメソッド演技に対する疑問を表している。演劇の根源を辿ると、演劇の最初の形は別に共鳴や同情を狙っているわけではない。儀式のため、神話を伝承するため⽣まれてきたものであり、演劇は決して⼈々の⽣活と近い存在ではなかった。

今作のメイン舞台は夢の世界。それをそのままで提示せず、観客を参加させ、一緒に判断を作るには、断片的な情報や、夢のような常理のない展開を、正常な会話の中に混ざる必要がある。勿論、敢えて作るとすると、全てに説明がつけるはず。しかし、「誰」というキャラクターを作る時と同じように、私は綿密に考えて作るのを避けていた。


3−3−1−1:主役を作り上げるにあたってのメソッド演技の放棄

「私」の役作りを考え、私はオーディションの時、経験の少ない応募者に注目していた。そして決まった役者は舞台経験ゼロの初心者。ほぼ二⼈芝居のセリフ量で初心者を採用するには勇気が必要だった。彼女を採用したのは、彼女から私が思う「私」の演技の素質があったからである。彼女には、演技法など習ったことはないが、こういう⼈格の⼈はこう振る舞うだろうという、⼈間観察力と賢さが備えている。

彼女に関しては、セリフのサブテキストや、入れっ子構造の一層目から三層目まで展開する過程などを説明しても、役作りの妨げになると判断する。彼女には、このキャラクター設定でどう作った⽅が普通なのかだけを考えさせる。そしたら「彼女」と合わせて会話をしだすと、会話が成⽴する上で、少しだけ異常な雰囲気を漂わせることが⾃然にできる。


3−3−2:密室劇にする理由と美術

私は観劇の時、袖裏の世界を想像する。これは良くない癖だと分かっているから、今作を密室劇にした。

最初の舞台美術の案はちゃんと楽屋スペースがあって、出入り口があった。


夢の部分だけを⾒せて、劇中劇の空間転移も壁を使って実現しようとしていた。

それから、台本内容の変化についれて、密室劇にすることが決まった。役者の退場や登場によって注意力を崩すことなく、板の上にだけ集中する。そして、層と層の間の跳躍は、空間をセリフや舞台美術、照明などで隔てることで実現する。


初演の案としては、奥⾏き2mx広さ7mの細長いクラフト紙の上で楽屋空間を作る。そして、その世界から登退場する場合、役者はパンチカーペットが敷いている「存在しない空間」に入る。そして「私」の⾃我の暴走によって劇中劇が崩れて、クライマックスになると、役者はそのクラフト紙をどんどん壊していく。つまり、楽屋世界のスペースは夢の崩壊についれて破れていく。


3−4:⾳楽、⾐装、スペース、etc

今作では、⽣演奏の伴奏を使う。パーカッション奏者に依頼して、シンギングボウルはじめ、金属系の打楽器で物語を進めてもらう。金属の伸びる響きで、幻想的な世界観を固める。

⾐装について:

「私」:「私」役の⾐装は一貫して、『枕中記』の劇中⾐装にする。劇中劇になると、幻想的な柄の中国式大袖を羽織る。その羽織⾃体が盧⽣であり、「私」 がいう「彼」、「こいつ」を代表する。顔には男役のメークをしていて、髪形も少し古代中国の男性に寄り添う。

「彼女」:「彼女」役は白のトップスと、デニムのオーバーオールを着用。

メークは極限に薄めで、二十歳の駆け出しの女優にふさわしい髪形にする。

「誰」:「誰」には、⼩劇場でよく⾒掛ける黒子のような服装を着させる。黒のパンツに黒のパーカー、手にもつファイルケースの裏に切ってあった蓄光テープが貼ってある。


『ありをふむ』の上演場所は、東京芸術大学校内の共感覚イノベーションセンター球形ホール。

舞台の奥に球形のしろほりがあるが、わざと隠したくないが、その存在感が劇の妨げにならないように、照明で舞台の必須な一部に⾒せる。

一番注意すべきなのは、このスペースの床は明るめのフローリングであること。ありがたいことに、バトンを完備しているこの施設に照明設備は吊れるが、床からの反射が気になる。全フロアをパンチカーペットで覆うことはできない限り、そのフローリングを利用する他ない。演出上、なるべく全ての照明をパンチカーペットと楽屋スペースに集中させる。そして、劇中劇の後半になると、「私」役は暴走し始めて、楽屋スペースを示す紙の床を破り出す。そこから、舞台空間は「私」の身体表現によって、客席ギリギリまで拡張する。観客も、その瞬間で客席側に戻り、観劇しているシチュエーションを再認識する。


終幕 おわりに

解説⽂を書いているうちに、稽古が進んでいる。まだ序盤ではあるが、日に日に形が⾒えてきた。

夢という概念を形にするのが難しい、身体と言葉を通じてそれを表現し、更にもう一個の意思を宿らせるのはもっと厳しいことだと、今回の制作でよく理解した。

私はよく、手に負えないテーマで作ろうとする、と言われる。それでも私は、⾃分も分からない、理解しきれてない分、創作が創作らしくなると思う。⼩説などを書いている時、調子が良ければ、ストーリーがコントロールできない、キャラクターが勝手に動くと⾃慢する。演劇もそうだと考える。脚本家の⽅々に失礼かもしれないが、私は、舞台というものは稽古場から始まるものだと思う。こうして、一つの物語(物語の形がない物語も含めて)が形作られていくのに、いつまでも快感を覚えたい。

未だに初心者を採用する決断はよかったか悪かったか、判断しきれていない。しかし、全ての選択が必ずいい結果に結びつくことを信じている。

日本で演劇を学び、この一年半の集大成になるであろうこの作品は、これからもこの道を歩み続ける信念の表れでもある。公演の成功を祈って、稽古に励む。


【謝辞】

修了作品の制作にあたり、ご指導をいただいた長谷部浩先⽣、古川聖先⽣、日比野克彦先⽣に深くお礼を申し上げます。制作の過程中、知恵を貸していただいた研究室の⽅々、ワークショップの⽅々、忙しい中、台本について大切な助言を下さった演出家の西森英⾏さんに、心から感謝申し上げます。そして、共感覚イノベーションセンター球形ホールの使用を了承してくださった関係者、責任者の⽅々、サポートを下さり、ありがとうございました。また、長い稽古を重ね、一緒に作品を高めてくれた、作品の一部分になってくれた、役者、ミュージシャン、スタッフの⽅々、一緒に戦ってくれてありがとうございました。


【参考⽂献】

ⅰ . Gordon Farrell, “The Power of the Play wright’s Vision”, Heinemann Drama, Portsmouth

(2001)

ii. 佐々木健一、 “せりふの構造” 、筑摩書房 (1985).

iii. “ファウスト その源流と発展” 道家忠道訳編、朝日出版社(1974)

iv. ライオネル・エイベル、“メタシアター ”高橋康也、大橋洋訳、朝日出版社(1980)

v. 三島由紀夫、“近代能楽集”、新潮⽂庫(1968)

vi. 寺澤浩樹、“武者⼩路実篤の研究―美と宗教の様式”、翰林書房(2010)

vii. Hans-Thies Lehmann,“Postdramatic Theatre”

translated by Karen J urs-Munby,Routledge,Oxon(2006)

【注釈】

① 『荘子』斉物論第二


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